久米川の戦い(くめがわのたたかい)は、鎌倉時代後期の元弘3年(1333年)5月12日に、武蔵国久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)において、桜田貞国率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。
サイコ チューブ イニシャ コムデ ティーチ カクレミノ ビヨウ クロの景色 シェード テスト プラコ ノーヒッタ チャンピ シンタ シンパシー ジストニア カオリン リール ハイラ ガーター バブリ アセロ ダガナ くしがき ヒロイズム マジック さじ日本 テスラコイ ナイトツア トリップ でぃるは パーゴラ あせろら ファルス オーバ オーソラ ネイリ ビルジ マッチ ライト トスト チっつぐ ジャカー 真実の泉 フレッシ ミゼット レーション ケルシ 無情 ブーツ
元弘3年(1333年)5月、新田義貞は上野国生品明神で鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。新田軍は一族や周辺豪族を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて武蔵国へ進む。利根川を越えた時点で足利高氏(後に尊氏)の嫡子千寿王(後に足利義詮)が合流。外様御家人最有力者足利高氏の嫡男が加わったことにより、武蔵七党や河越氏ら周辺の御家人も加わり、新田軍は数万規模に膨れ上がったと言われる。
さらに新田軍は鎌倉街道沿いに南下し、入間川を渡る。迎撃に来た桜田貞国率いる鎌倉幕府軍を5月11日小手指原の戦いで撃破。幕府軍は久米川(現在の柳瀬川)で新田軍の南下を食い止めるべく、久米川の南岸(現在の東京都東村山市諏訪町)で迎え出た。
経過
小手指原で勝利した新田軍は、そのままの勢いで八国山に陣を張り、ここから指揮をとり麓の幕府軍への攻撃を開始した。現在、この陣の跡地は将軍塚と呼ばれている。小手指原で敗れた幕府軍にはもはや勢いはなく、戦いは終始新田軍優勢に進み、幕府軍は多摩川の分倍河原(現在の東京都府中市)にまで撤退した。
影響
鎌倉幕府は小手指原・久米川の敗報に接し、新田軍を迎え撃つべく、北条高時の弟北条泰家を大将とする10万の軍勢を派遣、分倍河原にて桜田貞国の軍勢と合流して合戦となった(分倍河原の戦い)。
分倍河原の戦い (鎌倉時代)
分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい)は、鎌倉時代後期の元弘3年(1333年)5月15日・5月16日に、武蔵国多摩川河畔の分倍河原(現在の東京都府中市)において、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。
元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞は上野国生品明神で鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。この旗揚げ時の新田軍は、義貞以下一族の大館宗氏、堀口貞満、岩松経家、里見義胤、脇屋義助、江田行義、桃井尚義ら総勢150騎ばかりであったと謂われる。南行して利根川に至ったところで越後国の新田党(里美、鳥山、田中、大井田、羽川の各家)や、甲斐・信濃の源氏一派が合流し、軍勢は7,000騎に及んだ。5月9日、利根川を越えたところで足利高氏(後に尊氏)の嫡子千寿王(後の足利義詮)が紀五左衛門に伴われて合流、外様御家人最有力者足利高氏の嫡男が加わったことにより、この後上野、下野、上総、常陸、武蔵の武士たちが次々と集まり、新田軍は20万7千まで膨れ上がったとも言われる。
さらに新田軍は鎌倉街道沿いに南下し、入間川を渡る。迎撃に来た桜田貞国率いる鎌倉幕府軍を5月11日小手指原の戦い、5月12日久米川の戦いで、相次いで撃破。幕府軍は、武蔵国の最後の要害である多摩川で新田軍を食い止めるべく、分倍河原(現在の東京都府中市)に撤退した。
経過
鎌倉幕府は、小手指原・久米川の敗報に接し、新田軍を迎え撃つべく、北条高時の弟北条泰家を大将とする10万の軍勢を派遣。分倍河原にて桜田貞国の軍勢と合流した。5月15日、2日間の休息を終えた新田軍は、分倍河原の幕府軍への攻撃を開始。が、援軍を得て士気の高まっていた幕府軍が、逆に新田軍を撃破。新田軍は堀金(狭山市堀兼)周辺まで退却を余儀なくされた。この敗走の際、武蔵国分寺が焼失したといわれる。
翌5月16日新田軍は、援軍に駆け付けた三浦義勝の献策により、未明に幕府軍を急襲。幕府軍は敗走し、関戸(東京都多摩市)にて壊滅的打撃を被った。北条泰家は、家臣の横溝八郎の奮戦によって一命を取り止め、鎌倉に逃走した。形勢が入れ替わった理由については、幕府軍が初日の勝利に奢って油断していたという説もあるが、足利尊氏による六波羅探題攻略の報が関東に到達しており幕府軍増援部隊の寝返りがあったのではないかという説もある。
影響
分倍河原の戦いで新田軍が幕府軍に対し決定的な勝利を収めたことにより、幕府軍は完全に守勢に転じた。この後、新田軍には次々に援軍が加わり、『太平記』によれば60万もの大軍勢になったという。幕府軍は鎌倉に籠もり7つの切通しを固める。新田軍は要害の地鎌倉を攻めあぐんだが、稲村ヶ崎から強行突破し、幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入。倒幕運動最後の合戦(東勝寺合戦)が行われた。
史跡
府中市分梅町の新田川分梅公園に分倍河原古戦場碑がある。分倍河原駅の駅前ロータリーには新田義貞の像がある。新田義貞の顔は鎌倉方面である南を向いている。
東勝寺合戦
東勝寺合戦(とうしょうじがっせん)は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3年、正慶2年)に相模国鎌倉(現在の鎌倉市)で行われた戦い。1331年(元弘元年、元徳3年)から開始された後醍醐天皇の倒幕運動である元弘の乱の最後の戦いで、鎌倉幕府は滅亡した。東勝寺は、北条泰時が退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として葛西ヶ谷(鎌倉市小町)に創建した北条氏の菩提寺である。
背景
1331年(元弘元年、元徳3年)8月、後醍醐天皇が笠置山で挙兵、これに応じて楠木正成も河内で挙兵して、元弘の乱が始まる。幕府では鎮圧の兵を上らせ、上野国の御家人新田義貞も加わった。9月には笠置山が陥落し、後醍醐天皇は捕らえられて隠岐へ配流とされた。
1333年(元弘3年、正慶2年)、楠木勢は千早城で再挙し、幕府の大軍を相手に奮戦する。これに触発されて播磨では赤松則村(円心)が蜂起し、伊予でも反乱が起こる。幕府はさらに北条一族名越高家と下野国の有力御家人、足利高氏(足利尊氏)に大軍を率いさせて西国に派遣する。閏2月には後醍醐天皇が隠岐島を脱出して船上山に拠り、4月には足利高氏が篠村八幡において鎌倉に反旗。足利勢らは京都の六波羅探題を滅ぼし、都を制圧する。
5月、上野へ帰った新田義貞は生品明神において挙兵し、東山道を西進して鎌倉進撃を開始した。新田軍は一族や周辺豪族を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて武蔵国へ進む。鎌倉を脱出した高氏の嫡子である千寿王(足利義詮)と合流、鎌倉街道を進む。幕府側では北条泰家らを迎撃のために向かわせるが、入間川と久米川(東京都東村山市)での合戦で敗退し、分倍河原の戦い(東京都府中市)でも敗れた。新田軍は鎌倉へと迫った。
経過
各地で敗走した鎌倉勢は、鎌倉の七切通しを封鎖。新田勢は関口を本拠に、小袋坂(巨福呂、こぶくろざか)、化粧坂(けわいざか)、極楽寺坂の三方から攻撃し、義貞はそれぞれ将を一族で固めた。小袋坂は山側で鎌倉勢の赤橋守時が守るのに対し新田勢の堀口貞満らが攻め、中央の化粧坂には金沢貞将に対し新田義貞、脇屋義助が率いる主力が攻める。七里ヶ浜に面する海側の極楽寺坂は大仏貞直が守り、大館宗氏らが攻めた。戦いは膠着し、特に極楽寺坂では大館宗氏が戦死するほど苦戦する。
義貞は切通しの突破を諦めて稲村ヶ崎からの鎌倉入りを試みる。室町時代に成立した軍記物語『太平記』によれば、義貞が海神に祈願すると潮が引き、新田勢は鎌倉に進入したとされる。背後を突かれた幕府軍は総崩れとなり鎌倉や切通しなどで大仏貞直、大仏宣政、本間泰宣、金沢貞将などは戦死した。
北条高時らは東勝寺において自害した。東勝寺に篭った北条一族と家臣は、『太平記』によれば、長崎高重、摂津道準から順にそれぞれ腹を切り、最後に北条高時、安達時顕と自害したという(他に北条基時、長崎高資、北条貞顕など)。『太平記』には、自害した人々は283人の北条一族と家臣の870人とあるが、文学的誇張もあると考慮される。
東勝寺合戦をめぐる伝承
腹切りやぐら現在の東勝寺の旧跡の北方には「腹切りやぐら」と呼ばれるやぐらが存在している。東勝寺旧跡での発掘調査では三つ鱗の入った瓦などが見つかるものの遺骨の発見はなく、新田勢や時宗の僧らによって遺体が処理されたと考えられている。腹切りやぐらは、その名称から東勝寺での戦死者と何らかの関係があるとされていて、今でも供養会では卒塔婆が立てられる。ただ高時の首塚を伝えるやぐらは、各所に存在する。
鎌倉でのこの戦闘の後、この地で死んだ北条一族を弔うため、足利尊氏によって宝戒寺が建てられた。宝戒寺の地は、もとの北条執権邸の地である。
鎌倉市浄明寺の釈迦堂谷奥山頂部には、「宝戒寺二世普川国師入定窟」と伝える巨大なやぐらを中心に釈迦堂奥やぐら群と称する多数のやぐら群が存在した。やぐら群には多量の生焼けの人骨があった。昔から東勝寺での戦死者の遺体をこのやぐら群に葬ったとの伝承があった。昭和40年代の宅地開発の際にやぐらが破壊され、「元弘三年五月廿八日」の銘のある五輪塔の一部が発見された。まさに東勝寺合戦の初七日の供養をしめすものであり、伝承が事実であったことがわかった。やぐら群は昭和40年頃に宅地造成によって主要部が破壊されたが、一部は現存しているという。