王 駿(おう しゅん、? - 16年)は、中国の前漢時代末期から新代にかけての武将。前漢時代末期の政治家で御史大夫となった王駿とは別人である。
新の王莽配下の将軍である。居摂2年(7年)9月、東郡太守翟義が王莽打倒に蜂起すると、明義侯となっていた王駿は、王莽から強弩将軍(「彊弩将軍」とも)に任命され、奮武将軍孫建、虎牙将軍王邑ら他の6人の将軍と共に翟義討伐に向かった。同年12月、孫建・王邑らは、圉(陳留郡)で翟義軍を殲滅したが、王駿は軍功をあげられなかったため、翌居摂3年(8年)正月に将軍職から解任されてしまう。
一方で王駿は、前漢末期から匈奴との外交使節の任に携わっていた。時期は不明だが、前漢末に、中郎将として王昌と共に使節団の長となり、匈奴単于の下に派遣されている。王莽が新を建国した後の始建国1年(9年)、五威将となった王駿は、再び使節団の長となり、新の使節として印璽、金品等を匈奴単于に下賜した。しかし、この時の印璽の刻印は、王莽により漢の時代から改められていたため、後に匈奴の新からの離反を招いてしまう。
始建国2年(10年)12月、王莽は匈奴単于の称号を降奴服于と改め、立国将軍孫建に12人の将軍を率いさせ、五路からこれを討伐させた。この時、王駿も奮武将軍として12人の将軍の1人となっており、定胡将軍王晏と共に張掖郡から出撃している。
天鳳3年(16年)、匈奴を討伐するため、王駿と西域都護李崇は、西域へと出撃した。この時、西域諸国は王駿らの軍を支援したが、そのうちの一国である焉耆国は、偽って降伏し、王駿らを攻撃しようと備えていた。そのため王駿らは、莎車国・亀茲国などの兵7千人を率いて焉耆国を攻撃した。しかし、王駿指揮下にあった姑墨国・尉犁国・危須国の兵が反逆したため、王駿は敗北して戦死した。
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